2022年11月24日午前1時8分。
日本中がワールドカップ初戦の日本-ドイツ戦の勝利に沸いている中、我が家の愛猫コットンが天寿を全うした。
以下は後日Instagramにアップした文章を若干の加筆・修正を行ったものである。
うちの犬猫たちはどの子もそうだが、コットンにもたくさんの思い出がある。
出会いは2011年初冬の犬猫譲渡会だった。
その猫は当時生まれて三か月くらいだったが、小学生だった娘がオッドアイの白猫をとても気に入ってずっとずっと撫でていた。
うちにネズミが出たことで数か月前に保健所で貰ってきた先住猫のシナモンがいたが、一匹も二匹も同じだろうということでその白猫もうちの子になった。
名前はパパが付けた。コットンキャンディーのコットンである。
余談だが、うちの子たちはみんな私が名前を付けている。そうと決めているわけではないのだが、なぜかみんな食べ物の名前が付いている。
我が家ではマフィンが来るまでコットンは唯一の女の子で、とても優しく他のネコの毛づくろいをよくしてあげたし、自分も身だしなみをしっかりしていつもフワフワのモコモコだった。
キウイほどではなかったけど同じくらい膝の上が好きで、寒くなるとよく私の膝で丸くなっていた。
それより好きなのがネコ団子で、冬はずっと誰かと丸まっていた。
うちは全員外に出さず屋内飼育なのだが、コットンだけは物怖じしないのか逃げることに興味がないのか、お外に出ても穏やかな子だった。
お庭で放してのんびり散策してくれるのはコットンだけで、花の季節にはよく被写体になってもらった。
特に桜が咲いたら一緒に撮るのは恒例で、うちの桜は白いのでコットンでは映えないはずなのだけど、本当にいい写真が撮れた。
あまり声を出して鳴かない子で、何か言いたそうだけど口だけパクパクしていて何も聞こえないことがよくあった。
ただ、聞こえなくても何を言ってるかは分かった。「なにか美味しいものちょうだい」である。
他の子と最も違う点が食べ物に対する執着で、パパが食べてるものは必ずにおいを嗅ぎに来たし、気に入ればすぐかじろうとした。
他の人はくれないのでいつもパパのところに来て、時には無理やり奪って行ったりもした。
夕飯のおかずに魚が出てくると、座っているパパの足に両手をかけたり、お皿の端をちょいちょいとつついたりして催促してきた。
特に好きなのはパンで、よくパパにひとかけ貰って「もっとちょうだいよ、まだそんなにあるのに」という顔をしていた。
いろんな身体の数値が昨年亡くなったキウイの晩年のものより悪化しても、見た目上は全然元気だったのはその持ち前の食欲のおかげだったろう。
キウイは食べなくなってからあっという間だったが、コットンは一時的に食欲を無くしてもその後少しでも何か食べようとしたし、多分それ自体が彼女の生きるモチベーションになっていた。
ここ二年ほどはいろんな病気が見つかり、ママから毎日投薬・点滴・注射をされるようになった。
徐々にやせ細っていく身体に、毛づくろいする元気もなくなったようで、そのうちフワフワモコモコは見る影もなくなってしまった。
最初に死にかけたのは10/15で、動けなくなって横たわっていたのが呼吸が荒くなり身体に痙攣が始まり瞳孔は開いていて、キウイの時もそうだったからもうダメだと分かったので、福岡の大学に進学していて連絡がつかない娘以外、パパとママと息子で号泣しながら別れと感謝の言葉を伝えた。
今際の際に、あんなに食べるのが好きだったからこのまま逝かせるのは可哀想だと、口元に大好きなちゅ~るを付けて、少しでもラクに逝ってもらおうとした。
そのまま力なく逝くものだと思った瞬間、だらっと出ていた舌に当たったちゅ~るが彼女を虹の橋から引き戻した。
何度か弱々しくペロリと舌なめずりをしたところで、急に眼に力が出て、顔を起こした。
口元に残りのちゅ~るを近づけたら勢いよく舐めだし、そのうち身体も起こし、チューブにかぶりつくほど欲しがるからどんどんあげたら、空いたちゅ~るは5本になっていた。
そのころにはすっかり元に戻り、泣き笑いしている私たちをよそに、奇跡が起こった本人は座っておててをペロペロしていた。
奇跡の復活後もしばらく悪くなったり良くなったりを繰り返していたが、それなりに元気にすごしていた。
新入りのマフィンちゃんとの接触が少しずつ増えてきたが、無邪気な元気玉に付き合うほどのパワーはコットンにはすでになく、結局最後まで折り合いはつかなかった。
少しずつ慣れてきている雰囲気はあったが、しつこいマフィンちゃんに対して「ウー」と威嚇して終わった。
しかし死にかけたことは夢だったのかと思うくらい元気で、通りかかったパパを見つけては「何かちょうだい」と声なく鳴くし、このまま時が止まればいいのにと思った。
再び悪化したのは前回から約ひと月後の11/12。
さっきまで、パパが食べていた焼き魚の頭を強奪しようとして怒られていたのに、夜半過ぎにはまったく動けなくなっていた。
前回同様ぐったりして痙攣も始まり、さすがに今度こそもうダメだと思った。
また連絡つかなかった娘以外の三人で最後の別れをした。
完全に諦めていたそのとき、前回同様お口に付けていたちゅ~るをひと舐めして、また虹から引き返してきた。
二度目の奇跡だったが、前回ほどはすぐには元気に戻らずその後も痙攣を繰り返していた。しかしママが抱いたら痙攣も徐々に治まり、無事そのまま朝を迎えることが出来た。
慌てて娘が帰ってきたが、家につくころにはコットンはすっかり普通の状態に戻っていた。
翌日、病院と相談して、投薬・点滴などの治療行為をすべてやめた。
11月中は持ちそうにないし、もうそれ自体が身体に負担をかけているという判断だった。
やめたら身体が軽くなったのか、上れなくなっていた段差にもふたたび飛び乗れるようになった。
コットンはずいぶん元気そうに見え、バニラの時にもその医者から「あと半年」と言われて3年生きたので、今回もきっと年を越して何なら満開の桜も見られるのではないかとすら思ったりもした。
しかし今度は残念ながら医者の見立て通りで、今週になってから一気に食が細くなり、歩いていてもヨタヨタするようになってきた。
何が原因かは分からなかったが両目に幕がかかったようになり、視界も不明瞭なようだった。
昨日は夕飯のお刺身もそのあとのちゅ~るも、ほんの少しだけ食べた。いつも食後は心なしか満足そうな顔をするのに、この日はずっと不満そうだった。味覚が減退していたのかもしれない。
夜が深まるにつれてどんどん力がなくなっていき、とうとうトイレも出来ないほど動けなくなってしまった。
日本中が日本-ドイツ戦を応援しているとき、私たちはコットンの応援をしていた。
また呼吸が乱れ、痙攣が始まった。
さすがに三度目の奇跡はないだろうと分かってはいたが、一縷の望みをかけてまたちゅ~るを口元に付けてみた。
今回は娘とも連絡が取れ、娘はLINEのテレビ通話ごしにコットンに呼びかけていた。
家族四人で「今までありがとう」「またうちにおいでね」「おいしいものいっぱい食べたね」などと泣きながら声をかけた。
動けなくなって1時間、ママがコットンを抱っこした。本当は強く抱きしめたかったろうと思うが、コットンが苦しくないように気を付けて抱いた。
そのうち呼吸が出来なくなったのか数回苦しそうに喘いだが、「もう頑張らなくていいから」と止まらない涙とともに頭をなでていたら、そのうちに静寂がやってきた。ついにその瞬間が来てしまった。
抱っこしているママは鼓動や呼吸を感じていたようだが、おそらく自分自身のそれだったろう。もうおなかは膨らまなかった。
テレビ電話越しで状況がよく把握できていない娘は、「まだ死んでないよね、まだだよね、コットン!コットン!」といつまでも呼びかけていた。
大好きだった口元のちゅ~るは今回は一度も舐められることなく、たった11年3か月の旅を終えて、虹の橋を渡って行ってしまった。
「また一緒に見られるといいね」と言って見た今年の桜は、例年になく一斉に咲いて本当に美しい満開だった。
来年も桜が咲くころにはうちに帰ってくるかな。
大好きなお刺身を用意して、待っているよ。
コットン、またね。
2022.11.24 かず筆
11月26日に葬儀等一式執り行い、送り出した。