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いかりや長介追悼展レポート

えびりょうさんによるいかりや長介追悼展のレポートです。
※2004/6/27〜7/3、静岡県富士市吉原商店街にて開催。
スナップ写真集[パスワード=ikariya](7/9追加)

この日の出発は、前日に出先から家に帰らないで某健康ランドに宿泊した。
追悼展のある富士市吉原までは、ここから車で約30分から1時間だろう。
…なのに早朝7時に出発してしまうのがオカシイです(苦笑)
でも早く着いて誰も居ないうちに富士吉原商店街の場所や駐車場の位置などを確かめておきたかったのだ。
追悼展の場所や駐車場の確認を終え、一番近くにあるマンガ喫茶で時間を潰すことにしました。
インターネットしたり、マンガ読んだり、そのうちビリヤードまでしてしまいました。

9時半を過ぎてマンガ喫茶を出て、目的の場所まで行くことにしました。
駐車場に車を止めて外に出ると暑い…雨よりマシだが暑すぎる…。
会場は駐車場から歩いて2分ぐらいの所にあります。コレが早朝下見の成果。
主催者の方々が会場の近くの路地に式典用のステージを組み立てていました。
ステージには『感動をありがとう!いかりや長介さん市民感謝状・銀杯贈呈報告会』と書かれてました。
10時からって聞いてたけど、外で待ってると暑くて汗をかいちゃうのでコンビニで涼もうと商店街を1往復したのだがコンビニが無い…。
仕方なく10時前でも開店してた唯一の場所に行くことにしました…パチンコ屋です。

と言っても、パチンコはヤラないので どれが良いのか分からない。
でも先日 車修理してもらう為にいったディーラーで読んだ週刊誌に「今、『北○の拳』が出る!」みたいな事が書いていたんで、とりあえずその台を探してヤッてみることにしました。
「時間つぶしだから、時間まで…」と、何も分からずヤッていると3000円を注ぎ込んだ時に大当たり!
でも何をしていいのから分からいで普通にやってたら店員が来てやり方を教えてくれました。
すでに10時になったんで会場に行きたかったんですが、大当たりが止まらないワケで…。
結局、精算すると9000円になって戻ってきました。
まぁ、時間つぶしでヤリ始めたのに、儲かったのでラッキーだね。

話が逸れてしまいました…。
10時過ぎに会場に行ってみると、まだ開場してない。
式典が11時開始って事が書いてたので、その時間まで中には入れないみたいでした。
仕方なく時間つぶし…でももうパチンコには行きませんでしたけどね。

11時近くなりだすと人も集まり始めました。
主催の方が「只今、ご家族の方が市役所で式典を終えられてこちらに向かってると言うことなので、しばらくお待ちください」と伝える。
数回そのアナウンスをした時に いかりやさんの御長男到着。
こちらの会場では富士市市長と御長男と いかりやさんが富士市在住の時に一緒にバンドをやってた友人の3人が壇上に上がりました。
いかりやさんというと、ドリフ全盛の時を見れば分かりますが『長身』ですよね。
息子さんも長さん以上の大きい方でした。190cmぐらいあると思います。

さて、いよいよ式典の始まりです。
開始の音楽は お決まりの「8時だよ!全員集合〜!」と言うかけ声と共に流れるあの音楽。なかなか面白い演出ですね。
主催の司会始まったわけですが、挨拶はもちろん「おぃ〜っす!」
観客もそれに答えて「おぃ〜〜っす!」と言うわけですが、司会者から「元気がないなぁ〜。もう一度おぃ〜っす!」と昔の全員集合を思い出させる演出。

一通り挨拶を終えると、市長からの挨拶がありました。
いかりやさんは昭和19年に東京から疎開で富士市に移り住まれてから約15年間を過ごしたそうです。
昼間は製紙工場で働き、仕事を終えると仲間と大好きだったバンド活動をやっていたそうです。
東京に出て『ジミー時田とマウンテンボーイズ』として芸能活動が始まったわけですね。
その後は『ザ・ドリフターズ』として音楽と笑いの融合したバンドとして活躍しました。
ザ・ビートルズの日本公演の前座を務めたのは有名な話ですね。
『8時だよ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』など、数々のヒット番組を作り上げてきた凄い人なんです。
そして晩年は役者として活躍されて『踊る大捜査線』では和久さん役として、私たちの永遠の指導員になったわけです。
MOVIE1では日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を獲得され、音楽・笑い・演技の3つで頂点を極められたのですが、いかりやさん自身は常に謙虚で皆から尊敬される存在でした。

しかし残念なことに2004年3月20日に亡くなったわけです。
告別式には私も行ってまいりました。ベースを抱えた いかりやさんの遺影が印象的でした。
今にも演奏を終えたいかりやさんが顔を上げて「そんなに見るなよ…照れくせぇじゃねぇか」と言いそうな感じでした。

富士市住民としては、いかりやさんに感謝の気持ちで『いかりやさんを名誉市民にする会』を発足させて運動をしてきました。
富士市としても、市民憲章の関係で講演をしていただいて富士市の為に貢献していただいたと言うことで感謝状と銀杯の贈呈となったわけです。

市長の挨拶の後には、商店街振興組合理事長さんの挨拶でした。
挨拶のあと、いきなり「今日から1週間、吉原商店街は『長さん商店街』と言うことで頑張ります」と言いました。
商店街としても、長さんのように感動を与えられる商売を続けていきたいと述べてました。

そして いかりやさんの御長男の挨拶。
「富士市で過ごした15年間がなければ、その後の父の活躍は無かったと思ってまして、富士市の方々には父も大変感謝していました」と言ってました。
御自身も幼少期に実家にいる お婆ちゃんの家に夏休みや冬休みに連れてこられて、当時ワンパクだったけど 都会に無い自然に触れホントに楽しかった記憶があります…とも言ってました。
今回は父の遺品展示と言うことで、かなりとっておきなモノを用意しました…と言うことでした。
挨拶の後、商店街の方も今回の御家族の行為には本当に感謝していると言ってました。

最後に思い出話として、いかりやさんの約50年前のバンドメンバーで今も富士市に在住の稲岡さんの挨拶。
「市民感謝状、本当におめでとうございます。長さんも天国で大変喜んでると思います」と言う言葉から始まり、長さんの富士市での青春時代の思い出話が始まりました。

稲岡さんと長さんの出会いは勤め先の製紙工場で、当時ラジオのNHK静岡でコーラスを放送すると言うことで長さんと一緒に一夜漬けだけど練習をしたわけですが、その時に長さんも「楽器が好きだ!歌が好きだ!」と意気投合して、よく長さんは私の家に遊びに来てギターなどを弾いて練習してた。
そして話がだんだん進んで、当時ブームだったハワイアンバンドを作ろうじゃないかと言うことになって、同僚に呼びかけてメンバーを集めて5人でハワイアンバンド「LILIO HAWAIIANS(リリオ ハワイアンズ)」を結成。
地元のダンスホールの専属バンドとして4年間ぐらい活動をしていました。
長さんは1ステージ演奏が終わると 急いで降りて女の子とダンスを踊って、私達は隅の方で飲み物を飲んでいた…と言うことで非常に調子が良かったです(笑)

長さんの特徴としましては、会うと必ず「おす!」と言ってました。当時は まだ「おぃ〜っす!」とは言ってなかった。
非常にアイデアマンで、楽器を弾く時も非常にオーバーなアクションで弾いたりしてた。
会社の演芸会の時にはバンドのメンバー紹介の時に「ベース!碇矢」と紹介すると、あの大きいコントラバスを真ん中に持ってきて、もの凄い勢いで格好をつけてるから 観てる人は「どんな音がするのかなぁ?」と思って、普通なら重低音で「ボーン!」と鳴ると思っていて期待していたら「…ぽん♪」と鳴らしただけで戻っていって、会場は大爆笑になった。

当時車など無いので自転車に私を乗せて、長さんはコントラバスを担いで乗ってダンスホールまで通った。
ここで笑い話なんですが、その自転車を長さんが貸してくれと言うので貸してあげたのだが、いつになっても返してくれないので不安になっていたら、当時私の親父が村長をやっていたのですが、街を歩いてると 当時自転車の後輪側の泥よけには名前と住所が書かれていたので直ぐに分かって見つけて大慌てで帰ってきて「なぜ自転車を質屋に入れたんだ!?恥をかかせるな!」と私を怒鳴りつけた。
次の日に「長さん、なんで質屋に入れたんだ…親父に怒られたよ」と言うと、長さんが質屋から戻してくれたという ほんの笑い話です。

長さんが「おれは東京に行くんだ!」と言うことで離れることになったんですが、別れに握手をして送ってあげました。
それからしばらくして、今から22年前ぐらいに会社の社内報の取材として私が長さんにインタビューをする事になって東京のフジテレビに行ったのですが、ちょうど正月の番組のリハーサル中をやってる時に御邪魔しました。
今でも忘れませんが地下の6番のリハーサル室に行って、腰を掛けて見ていると隣には高田みずえさんが居ました。
そしてリハーサルが終わりまして、長さんにインタビューをし終えて帰ることになって一人で廊下に出たわけですが、広いフジテレビの社屋の地下で迷ってしまいました。
廊下を歩いていると、向こうから一人のおっさんが来たので「出口はどちらですか?」と聞いたのですが、その人は なんと岡本太郎さんだった。

現在LILIO HAWAIIANSで残っているメンバーは私だけになってしまいました。
またいつか天国で、昔のメンバーでハワイアンをやろう!と長さんに言いたいです。

と言う話でした。とても貴重な昔話が聞けて、ホントに良かったです。

これで式典も終わり、場所を変えて展示場の前でテープカットを行うと言うことになったんですが、ここでまた味な演出。
「それではミュージックスタート♪」と言う司会の言葉の後に、全員集合でおなじみの舞台チェンジの音楽が流れ出しました。
音楽に合わせ皆が移動して、展示場前で 市長さんと商店街理事長さんといかりやさんの長男の3人でテープカットを行いました。
それが終わると開場になって、展示物が見れるようになりました。
初めのうちは混んでいたので外で待つことにしました。あとでジックリ見るんで。

人も空いてきたんで、受付で記名をして中に入りました。
中に入ると、右側に一般応募したイラスト、昔の写真などが壁一面に。
左側にはアカデミーのトロフィー、撮影時の眼鏡、『踊る大捜査線』と『弁護士 猪狩文助』の台本、50年前のダンスホールで使用していたミラーボール、ミュージシャン時代の衣装、ギター、ドラマ『弁護士 猪狩文助』の衣装、撮影の待ちに使用されたイス、アフリカケニアの服、スマスマの時の衣装などが展示してありました。
イラストは、年配の方から若い人までと 幅広い年齢層の方から送られてきたようで、改めて庶民ウケしてた人だなぁと思いました。
昔の写真を見ると、昔から あの特徴のある顔と唇でした。ちょっと他の人より老けて見えましたね(笑)

主催の方とも話をしましたが、展示会としては規模は小さいし 展示してあるモノも少しですが、全て御家族の厚意で展示されてるので とてもありがたいことですよね。
そして今回の主催である富士市の方々も とても素晴らしい人達ですね。
自分たちの力で作り上げた この企画も大成功でしょうし、来た方々にも感動を与えられたと思います。
長さんが亡くなられて3ヶ月ちょっとですが、まだまだ私たちの心の中では生き続けているし、一生忘れない思い出を残してくれたので、私たちも頑張らなければいけないですね!

富士市の皆様、ありがとうございました。
御遺族の方々も ありがとうございました。

そして、長さん。本当にありがとうございました!

Written by えびりょうさん
2004.6.30
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