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実は今日の話題は私の個人サイトの日々更新の日記(今は休業[99/5/20補筆])で書こうとしたものだった。
しかし内容の重さと膨大な文章量のためにコラムとして改めて書こうと思い、途中でやめたのである。
内容が重いと言っても、一般人に比べて語彙の少ないと思われる私の文章ではそれほど難しくも無いと思うので、のんびりご覧頂きたい。
ただ内容が内容だけに、こういう話題を受け付けない人もいるであろう。そういう人はここで読むのをやめて欲しい。
特に宗教関係に強い関心と確固たる信念がある人はやめた方がよいと思う。文句は受け付けない。

私の弟が中学一年の頃、もう10年ほど前。
今の私と同い年の音楽の先生が出したテストで、4択問題が計10問出た。
普通、選択肢というものは「1〜10」とか「a〜d」とか「イ〜ニ」とかだが、何故かその問題は選択肢の文字がバラバラであった。
弟は音楽の成績は良かったので、選択肢がバラバラなのをちょっと気にしながらもスラスラと答えていくと解答用紙に文章が出来上がった。
「ハヤクケツコンシタイ」
サービス問題であると同時に先生の心の叫びであったのだろう。その当時は笑い話として聞いたのだが、今となっては私も同志である。
生涯共に出来る『女神様』との出会いを待っているのだ。
私が学校の先生だったら同じ手を使ったかもしれない。生徒に聞いてもらってもどうしようもない話ではあるのだが。
いや、今すると生徒に手を出そうとした不純な先生ということで訴えられるかもしれない。
昔は平気でまかり通ったことが、今ではタブーだったりする。

不特定多数の人間が読む場所で政治や宗教に関する話は、ネットワークの世界ではいわゆるタブーの一つに入る。
ネットワークのタブーといえば某Microsoft社の某Mailソフトがデフォルトでそういう設定になっているように、初めてメールをする相手にHTMLメールを送りつけるのはタブーである。
そんなメールをメーリングリストにでも出そうものなら非難囂々でメーリングリスト内で村八分にあうこと請け合いなので、生涯一匹狼のつもりの人は是非一度試してみていただきたい。

このネットワークのタブーというのも時代とともに移り変わるらしく、インターネットが今ほど世に浸透していない頃にはメールやニュースの返信の時の引用文は「全文引用」が基本であった。
書き物というのは文字になった時点でただの文章というだけでなく著作物としてこの世に生を受けたモノ、という考え方が根底にあったからだ。
10行書けば10行まとめて著作物ということで、勝手に間をちょんぎったりすることはタブーであった。
しかし近年では誰かが「引用文として引用する場合には短くしても可」ということに気が付いたのか勝手に決めつけたのか分からないが、まぁそういうことになったらしい。
もっともこれだけインターネットにトラフィックがかかっているというのに、これ以上の負荷はかけてはいけないので引用文は出来るだけ短くした方が良いと個人的にも思う。ズラズラ長たらしい文章というのは読みづらいということもある。
短くしすぎると元ネタが分からなくなったりするので注意が必要だが、だいたいにおいて元ネタなんて分からなくたって会話は成立したりするのでまぁそれほど神経質になる必要もない。
と、こんなわけで数年前のタブーが今では全く逆になってしまっているのだ。
これがまた数年してインターネットが太くなって許容範囲が広くなったら「人の文章を削るとは失敬だぞ」なんて世界になるのかもしれないが、そうなったらそれに従うことにしよう。
時代なんてモノは移り変わって当然なのだ。
HTMLがインターネットの標準になる日も来るかもしれない。たぶん来ないが。
今キャミソール着て歩き回ってる女の子たちも10年経って今の姿を写真か何かで見たら絶対恥ずかしい思いをすると思う。
ほこりをかぶった母親のアルバムに張り付いている膝上幾十センチのミニスカートを履いたセピア色の写真が格好悪いのと同じだ。
それもこれも時代の流れである。

と、思い切り話が脱線して不必要に文章が長くなってしまった。
タブーだ何だと騒ぎ立てながら結局私もトラフィックを増やしてたりする。
賢明な読者はプロキシーを使おう。

枕おわり。
で、本題。タブーとされる一つ、宗教の絡んだ話である。

私は神様のお世話になったことがない。
そう、無神論者である。
ただ、文字の通りの「神様なんていないと思っている者」というわけではない。

キリスト教や仏教、イスラム教にヒンズー教、いろんな宗教があっていろんな神様がいる。
いたら神秘的だし素敵だなと思う。天地創造なんて聞いたらワクワクする。キューピットみたいな天使がいたらいいなと思う。
聖書もよく読む。特に旧約聖書は好きな本の片手に入るくらいだ。
だがしかし、たとえ天地を創造したのが神様だとしても、今のこの世に神が存在しているとしても、私は神様に用はない。

「アナタハカミヲシンジマスカ?」って、あんた神様なら信じてるとか信じてないとかに関わらず救ってくれよ。
お布施ってなんだ、お賽銭ってなんだ。寄付金あげなきゃお慈悲はないのか?
そんなケチくさい神様なら用はない。
現に私が苦しくて死にそうなときに助けてくれたのは神様でもなんでもなく、恋人や友達だった。神様なんて現れなかった。
パチンコに狂ってる親が車におきざりにした罪もない子供が死んじゃうのは何故だ。神様は何故救わなかったのだ。

とても親しい友人である某旦那がまだ独身の頃にとある駅前で手相屋にひっかかった。
手相が悪いだの何だの言われて、これからの人生を有意義に生きるためにとかで仏像みたいな物を買わされそうになった。
買え買わないの押し問答の後に「俺の人生は俺が決める!」と言い放って帰ってきた。

生き方の指針として神様にすがることに対して非難するつもりはない。
頭がグチャグチャになって何も考えられない状態だってあるからだ。私の場合は神様でなく友達や恋人にすがるが。
そんな感じで、参考意見として誰かの意見を聞くことはあるかもしれない。
しかし最終的にどうするか決めるのは自分だ。
「俺の人生は俺が決める」なのだ。

誰かが正しいというから正しいのではない。
自分が正しいと思うかどうかには民主主義は関係ないのである。自分が正しいと思うことは自分以外の全ての人間が間違っていると思っても、自分にとっては正しい。
全ての真理を決めるのは親でも先生でも神様でもなく、自分だ。
悪いことをしている人間は、自分が悪いことをしているのだと、知っている。

何が正しくて何が間違っているのかが分からなくなったときに誰かに尋ねて、その答えを基に自分の中で考えをまとめて真理を導く。
そういうときの拠り所が「神様」であり、そういうときの教えが「宗教」ではないのか。
たとえこの世を神様が創ってくれたのだとして、その創造物である我々が創造主の言うことをその通り聞かなければいけないなんて筋合いはどこにもない。
常に神様の言う通りにしなきゃいけないなんて、バカらしい。
自分の弛まぬ努力で成し遂げたことにも「これはきっと神様のお陰だ」って、アホらしい。自分が頑張ったお陰でしょ。

もっともこの私の考え方からすると、その人が正しいと思っていることが真理なのだから、どこかにいるであろう神様の言うことを聞いてそれだけで生きる人、もアリである。
その人がそれを正しいと思っているのだから。
繰り返すが、私は無神論者だが「神様なんていないと思っている者」というわけではない。

全ての真理を導き、したいと思った全てのことを実現できる可能性がある、人間という存在。つまり、
人間である自分自身が、その人にとっての「神」なのだ。

八百万の神様がいる、と思っている人ならば自分もその神様の一部だと考えると良い。ただ、その多くの神様の中でも自分自身に対して絶対的な決定権を持つ神、つまり自分自身が最高位の神であり、絶対神なのだ。

良いことをしていれば天国に昇れるし、悪いことをすると地獄に堕ちる。
これ、どこかで聞いたことないだろうか。そう
「早く寝ないと悪い奴が来るよ」
「食べ物を残すともったないお化けに食べられちゃうよ」
そういって言うことを聞かせようとした母親の台詞とおんなじである。
どこかの神様にホントに天国行き地獄行きを決められるわけではないのだ。正しいと思うことをせよ、と言っているのだ。
もしどこかの神様が「パソコンなんて無機質な物にずっとかじりついてるなんてことは、悪だ」と言えば私は地獄の最下層に堕とされるのか。何が善で何が悪なんだ。
自分が善と思ったことが善、悪と思ったことが悪なのだ。だから、自分自身が神なのだ。

ここまでは特に私の言いたいことではない。
真理は万人に別々に存在するので、私の考え方を無理に押しつけるつもりはないし、押しつけてはいけないものだと思う。
お布施もお賽銭も、いらない。くれれば遠慮なくいただくが。

子供が交通事故に遭う。
出血多量で輸血をしなければ死んでしまう。輸血をすれば助かるだろうし、手に入りにくい血液というわけでもない。
生と死の境目を子供がさまよっている、その横で。
「私たちの神様は輸血なんて不浄なことは許さないので、子供にも輸血はしないでくれ」と親が医者に訴える。
なんなんだ、それは。
親かなんだか知らないが、あんたら自身が死にそうなときに輸血を拒むのは分かる。死にたければ勝手に死ね。
それを他人に押しつけるというのは何なんだ。
子供だって産まれた瞬間から自分とは別の人間なのだ。あんたらの神様がその子にとっても同様に神であるなんて誰が決めた。
そんな理屈はともかく、その子は死ぬ寸前まで考えていたはずだ。
「ボクはまだ死にたくないよ。お母さん、助けて・・・」
子供は親の付録じゃない。生き方死に方まで強制される筋合いは子供にはない。
これが今回の言いたいこと。

善悪なんてのも結構時代とともに移り変わる。
帝政の世の中なら皇帝の悪口を言うだけでも不敬罪、絶大な信頼を皇帝に寄せている人にとっては不敬罪で捕まった人間なんて極悪人とされてしまっただろう。
今は言論の自由だとかなんだとかで、悪口を言っただけで悪人にされることはあまりないし、悪口を言うことをとても悪いことだと思っている人はあまりいない。
ちなみに私も悪口は言う。が陰口は嫌いである。
なので気に入らない人には気に入らないと言うし、よっぽど気に入らない奴にはそれと分かるように口をきかないようにしている。
こっちもあっちも嫌ってれば、いざこざも少ないものだ。そもそも接触する事も少なくなり、そうなれば円満だ。
当人のいないところで言えば陰口になるのだろうけれど、私の場合はそうやっていっている悪口が相手に伝わってもいっこうに構わないので純粋な陰口ではない。また話がそれた。
牛肉を食べることは悪いことだと思っている人と、他人との性交渉は正しくないと思っている人とは善悪は明らかに違う。
ルーズソックスを履くことを禁止した学校はルーズソックスを悪だと思っている。
アラビア圏にキャミソールで出かけたら、不謹慎だなんだと悪人よばわりされる。

あらゆるタブーがひっくり返る。
いじけて天岩屋戸にこもった天照大神は正しかったのか。
アダムとイブをそそのかしたヘビを創った神は正しかったのか。
階級差別を創ったヒンズー教は正しかったのか。
聖戦と称して大量虐殺を行うイスラム教は正しいのか。
宗教なんて神様なんてその程度のものなのだ。
だから私は「自分以外に神様なんていない」と思っている。だから無神論者なのである。
私が神である。

私は無神論者である。
しかしそのくせ永遠の『女神様』と出会うことを待ち望んでいたりする。
あぁ、だから女神様にも出会えないのか。
これは公開直後、悪い意味で大反響だった。宗教のことを書くのはほんとにタブーだなと、心から思ったものだ。
それをどうしてここにまた公開しているのかというと、今でもこの気持ちは変わっていないからだ。いまだに神様に助けてもらった経験はない。
Written by かず
1998.09.08-1999.5.20
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